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東京高等裁判所 昭和53年(行コ)76号 判決

控訴人(原告) 伊藤里栄子

被控訴人(被告) 小石川税務署長

訴訟代理人 品川芳宣 小林孝雄 外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人が昭和四九年二月二八日付で控訴人の昭和四七年七月九日相続開始にかかる相続税についてした更正処分中課税価格三、〇四九万七、〇〇〇円を超える部分及び過少申告加算税賦課決定(但し、右処分はいずれも昭和四九年七月二四日付異議決定及び昭和五一年五月二六日付裁決により一部取り消された後のものを指す。)を取り消す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、主文と同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠関係は、次のとおり付加するほか、原判決の摘示事実と同一であるから、ここにこれを引用する(但し、原判決七枚目表六行目の「五二万六五八円」を「八四万八、一二〇円」と、同七枚目裏六行目の「一八八(五)」を「一八八(六)」とそれぞれ訂正する。)。

(控訴人の陳述)

(一)  相続税法一三条一項一号及び同法一四条一項は、相続税法上債務控除の認められるのは、相続開始の際現に存する債務であつて、かつ、確実と認められるものに限るとしている。しかし、右にいう「債務」とは、被相続人が固有の債務として負担していた債務を指称し、本件「出資」のごとき積極財産の評価要素としての債務までも包含するものではない。また、当該債務が確実な債務でないことの主張・立証責任は、課税庁たる被控訴人側にある。したがつて、相続財産たる株式等の評価に関する負債金額の計算についても法人の各事業年度の所得金額の計算に関する法人税法の規定等が適用になるとする被控訴人の主張は、失当である。

(二)  仮りに適用になるとしても、労働協約や就業規則で退職金給与規定が定められている場合には、従業員退職の際会社が従業員に対して所定の退職金を支払うべきことが個別的労働契約の内容となつており、また、従業員は将来必らず退職するのであるから、会社の当該義務の履行は、条件付ではあるが、極めて確実である。しかも、控訴人が相続財産たる有限会社殖産堂の出資の評価に当り相続開始時に同社が従業員に対して支払うものと仮定して算出した本件退職金相当額は、時の経過により従業員の勤務年数が増加するにつれて増大することはあつても、減額されることはまずあり得ず、ただ、その履行の時期が到来しておらず、退職金額も将来増額される可能性があるというにすぎないのであるから、相続税法一四条一項にいう確実な債務であるというを妨げない。そして、商法上も、本件退職金相当額のごとく、特定の支出又は損失に備えるために設けられた引当金であつて労働協約や就業規則等によりその支払いが約定されているものは、いわゆる「法律上の債務」として、すべてそれを貸借対照表の負債の部に計上すべきものとされており、また、それが「一般に公正妥当と認められる会計処理」(法人税法二二条四項)の方法である、ということができる。

されば、本件退職金相当額は、相続財産の評価に当り、有限会社殖産堂が法人税法五五条二項所定の退職給与引当金勘定を設定していると否とにかかわらず、その全額を負債とすべきである。

もつとも、法人税法五五条、同法施行令一〇五ないし一一〇条は、法人の当該事業年度の所得金額の計算に当り、「退職給与引当金」の累積限度額を期末退職給与支給額の五〇パーセントとしている。しかし、これは、「退職給与引当金」が当該法人の確実な債務であることを肯定したうえで、期間損益の算定をより正確なものたらしめんとして引当金の損金算入を認め、ただ、その限度を、在職年数別の平均在職余命年数からみて要支給額の複利原価相当額の引当てを行えば足りるとして、期末退職給与支給額の半額に制限したところに、法人税法二二条三項にいう「別段の定め」としての意義が存するのであつて、被控訴人主張のごとく、「退職給与引当金」が本来的に確実な債務ないしは確定した債務でないことを前提として、特別の政策的理由から、本条の規定によつてその損金算入を認めたものではない。しかも、同条は、法人税の課税標準の期間計算上の特則にすぎず、これとの関連性を見出せない純資産価額方式による株式等の評価については、もともと適用がないものといつても過言ではないのである。

(三)  しかるに、相続税財産評価に関する基本通達(昭和三九年四月二五日付直資五六・直審(資)一七、以下単に「相続税財産評価通達」という。)が、法人税法五五条二項所定の退職給与引当金勘定を設けていない法人については「退職給与引当金」を負債と認めないとしているのは、この種法人に対していわれなき不利益を課する違法の措置というべきである。

そればかりでなく、もともと、右通達が、純資産価額方式による株式等の評価に当り、課税時期における当該法人の清算所得を算出し、その清算所得に係る法人税等の税額を純資産価額から控除することとしているのは、当該法人が解散した場合における株主等に分配可能な純資産の額を想定する計算方法が合理的であるという考え方に基づいているのに、課税時期において支払うべき本件退職金相当額を負債として資産より控除することを認めず、また、一方でいわゆる擬制資産である繰延資産についてはそれを「資産」としながら、他方で退職給与引当金についてはそれを「負債」でないとすることは、いずれも、自己矛盾であるというほかはない。

(被控訴人の陳述)

(一)  およそ、相続税法にしても法人税法にしても、課税標準の計算に関する規定は、租税公平負担の実現を期せんとする法意に出たものであるから、その点に関する規定が互いに参酌されるのは、当然である。したがつて、相続財産たる株式等の評価に関する負債の額の算定に当り、相続税法一四条一項にいう「確実と認められる債務」の解釈について、それに類似する概念である法人税法上の「確定した債務」(二二条三項二号参照。)に関する規定や行政通達等が適用されるものと解するのが相当である。

(二)  ところで、一般に、ひとしく退職金支給規定であつても、それが就業規則で定められている場合には、労働協約で定められている場合に比らべて、退職金支払債務は、確実性に乏しいとされている(法人税法施行令一〇六条二項が労働協約のない法人の「退職給与引当金」の繰入れ額を特に制限しているのも、右の理由によるものである)。そして、有限会社殖産堂には退職金支給規定を定めた労働協約はなく、しかも、本件退職金相当額算出の根拠となつた殖産堂就業規則には、「この規定は、社会事情の変動または法令の改正をみたときは、代表と協議の上改廃することができる。」(二一条二項)と規定した改廃条項があるので、本件退職金相当額は、債務としての確実性を欠き、商法上もいわゆる「法律上の債務」に該当するかどうかは疑わしい。

法人税法五五条の規定は、控訴人主張のごとく、「退職給与引当金」が本来的に確定債務であることを承認しているのではない。けだし、法人税法上法人の各事業年度の所得金額の計算に当り、当該事業年度の損金の額に算入できる費用の額は、別段の定めがあるものを除き、償却費以外にあつては「当該事業年度終了の日までに債務の確定しているもの」に限られることになつている(同法二二条三項二号参照。)が、「退職給与引当金」は、債務となり得る性質を有しているとはいえ、当該事業年度終了の日までにその債務が確定していないため、本来は、その損金算入が許されないはずである。ところが、法は、将来特定の費用として支出されることの蓋然性が高く、支出の原因となる事実も当期に存在しており、しかも、支出金額を合理的に算出することが可能であるというこの引当金の特質にかんがみ、また、これを負債性引当金として費用計上を認めようとする会計理論をも斟酌し、法二二条三項にいう「別段の定め」として、当該法人がその確定した決算において費用又は損金として経理するいわゆる損金経理によつて退職給与引当金勘定を設けている場合に限り、労働協約で退職金支給規定が定められている法人にあつては、退職金要支給額の当期発生額をもつて、労働協約以外のもので退職金支給規定が定められている法人にあつては、右当期発生額と当期における使用人給与総額の六パーセント相当額のいずれか低い額をもつて、当該事業年度の繰入限度額とし、しかも、期末退職金要支給額の五〇パーセントをその累積限度額として、損金算入を認めようとするのが、前記法人税法五五条の規定である。

(三)  ところで、相続財産評価通達が、取引相場のない小会社の株式等の評価につき、「価格変動準備金、貸倒引当金、退職給与引当金(法人税法第五五条第二項に規定する退職給与引当金勘定の金額に相当する金額を除く。)、納税引当金その他の準備金および引当金に相当する金額は負債とせず」と規定して、法人税法五五条二項所定の退職給与引当金勘定を設けていない法人にあつては「退職給与引当金」を負債と認めないこととしているのは、右法五五条が各種引当金のうち同法二項所定の退職給与引当金勘定を設けている法人の「退職給与引当金」に限り負債として取り扱うとした趣旨を明確にしたにすぎないのである。

また、右通達が、取引相場のない小会社の株式等を純資産価額方式によつて評価するに当り、課税時期における当該法人の清算所得を算出し、その清算所得に係る法人税等の税額を総資産価額から控除することとしているのは、単に個人企業に対する課税との権衡を図らんとするものであつて、決して、控訴人主張のごとき考え方に基づくものではない。

(証拠関係)〈省略〉

理由

本件につきさらに審究した結果、当裁判所も、控訴人の本訴請求は失当として棄却すべきであると判断するものであり、その理由は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決の説示理由と同一であるから、ここにこれを引用する。

(一)  原判決八枚目裏八行目の「三、二二二万一、二八五円であつたこと」の次に、「、退職金相当額も負債とみることができるか否かの点はしばらく措き、負債がすくなくとも二、六四八万九、一八〇円であつたこと」を加入する。

(二)  本件有限会社殖産堂の出資のごとき、取引相場のない小会社の株式等の相続税課税財産について、課税価格に算入すべき価額は、相続開始の時における当該財産の一株当りの価額から、被相続人の債務であつて相続開始の際現に存するもの(公租公課を含む。)のうちその者の負担に属する部分の金額を控除する、いわゆる純資産価額方式によつて評価した金額である(相続税法一三条一項、相続税財産評価通達一七九(3)、一八八(6)、一九四参照。)が、その控除すべき債務は、「確実と認められるもの」に限ることとなつている(同法一四条一項参照)。

本件における唯一の争点は、控訴人主張の退職金相当額がここにいう確実な債務に該当するかどうかということであるが、以下、この点について判断することとする。

およそ、労働協約や就業規則で退職金支給規定が定められている場合には、従業員退職の際会社が従業員に対して所定の退職金を支払うべきことが、個別的労働契約の内容となる。会社は、従業員を雇用することによつて当該義務を負担し、爾来、右規定を改廃することによつて従業員の既得権を一方的に奪うことの許されないのはもとより、当該義務を履行しないときは、債務不履行の責任を問われ、労働基準法二三条違反として罰則(同法一二〇条一号)の適用を受けること、いうまでもない。

しかし、労働協約の有効期間は、三年を超えることが許されず(労働組合法一五条一、二項参照。)、また、就業規則を一方的に改廃して従業員に対し新たに不利な労働条件を課することも、「当該規則条項が合理的なものである限り、個々の労働者においてこれに同意しないことを理由としてその適用を拒むことは許されない」(最高裁判所昭和四三年一二月二五日大法廷判決、民集二二巻一三号三、四五九頁参照。)のであるから、退職金支給規定そのものは、社会事情の変遷や経済事情の変動等を考慮すれば、それが労働協約で定められている場合であれ、就業規則で定められている場合であれ、絶対不変のものではないというべきである。しかも、一般に、退職金支給規定の改廃は、それが就業規則で定められている場合には、労働協約で定められている場合に比らべて容易に行なわれ得ること、当裁判所に顕著な事実である。そして、有限会社殖産堂には退職金支給規定を定めた労働協約はなく、本件退職金相当額算出の根拠となつた殖産堂の就業規則には、「この規定は、社会事情の変動または法令の改正をみたときは、代表と協議の上改廃することができる。」(二一条二項)と規定した改廃条項の存することは、控訴人の明らかに争わないところである。

また、右の点はしばらく度外視するとしても、会社が従業員退職の際従業員に対して退職金支給規定で定められた退職金を支払うべき義務は、従業員を雇用することによつて直ちに負担するものであるとはいえ、その義務の履行期は、従業員の退職という事実の発生によつて到来し、その支払金額も、各従業員の退職の事由と勤務年数によつて決まるのであるから、退職の事実発生前の段階にあつては、潜在的義務の域を出ないものであり、到底具体的、現実的な義務とはいえないこと明らかである。本件退職金相当額なるものも、控訴人がその夫喜通の死亡によつて相続した有限会社殖産堂の出資の評価に当り、相続開始の時において当該事業年度末に在職する従業員が全員その日に自己の都合によつて退職したものと仮定して算出した退職金の額であること、控訴人の主張自体に徴して明らかであるから、それは、各従業員の実際の退職の時期、事由等退職金算定の条件が不明のままに試算された非現実的なものであるというべきである。

ところで、相続財産の価額から控除できる「確実と認められる債務」(相続税法一四条一項)といい得るためには、法人の各事業年度の所得金額の計算に当り当該事業年度の損金の額に算入することのできる「確定した債務」(法人税法二二条三項二号)についていわれているごとく、「当該事業年度終了の日までに、当該費用にかかる債務が成立し、その債務に基づいて具体的な給付をすべき原因となる事実が発生し、その金額を合理的に算定することができるものであることが必要である」(法人税基本通達―昭和四四年五月一日付直審(法)二五―二―一―五参照。)と解するのが相当である。

しかるに、本件退職金相当額は、前叙のごとく、具体的な給付をなすべき原因となる退職という事実が発生しておらず、したがつてまた、退職金額算定の諸条件も未定であつて、金額を合理的に算定することができないものであるから、有限会社殖産堂の出資の価額から控除し得る債務ではないといわざるを得ない。

控訴人は、相続財産たる株式等の評価に関する負債金額の計算については、法人の各事業年度の所得金額の計算に関する法人税法の規定等を適用すべきでない旨主張するが、課税標準の計算に関する税法の規定は、租税公平負担の実現を期せんとする法意に出たものであること、被控訴人主張のとおりであるから、相続税の課税標準の計算に関する相続税法の規定の解釈については、別段の定めがある場合を除き、法人税の課税標準の計算に関する法人税法の規定や公定解釈等を参酌し得ることは当然である。

また、控訴人は、仮定的にではあるが、法人税法五五条の規定は「退職給与引当金」が本来的に確定債務であることを承認したものであると主張し、そのことをもつて本件退職金相当額が相続財産の価額から控除できる「確実と認められる債務」(相続税法一四条一項)に該当することの証左たらしめんとしている。しかし、「退職給与引当金」なるものは、退職金の将来の支出に引き当てることを目途とし、退職金支払義務が具体的に確定する以前の事業年度において算出された金額であるが、それが法人税法二二条三項二号にいう「当該事業年度終了の日までに確定した債務」に該当しないことは明らかであるから、これを損金に算入することは、本来ならば許されないはずである(法人税法二二条三項参照)。ところが、法人税法五五条は、退職金支給規定所定の退職金の額が勤務年数に応じて増大することから、各事業年度に対応する退職金部分は、条件付にではあるが、その期において発生したものとみることができ、それが将来費用として支出されることの蓋然性も高く、かつ、その金額を或る程度合理的に算出することも可能であるというこの退職金部分の特質にかんがみ、また、これを負債性引当金として費用計上すべきであるという企業会計理論をも斟酌して、価格変動準備金、貸倒引当金、納税準備金等とは異なり、この各事業年度に対応する退職金部分を、法人所得の期間計算上、特に、「退職給与引当金」としてその負債性を認め、継続企業にあつては従業員全員が一時に退職することは極めて例外的現象であるので、従業員の平均的な勤務年数、年齢構成等を勘案して、要支給額の複利原価相当額の引当てを行えば足りるということと、この種引当金の過大引当によつて不当に法人税の軽減を図るのを未然に防止すべきことをも考慮して、当該法人が所定の退職給与規定(同法施行令一〇五条参照。)を定め、かつ、その確定した決算において費用又は損金として経理するいわゆる損金経理によつて退職給与引当金勘定を設けている場合に限り、かつ、労働協約で退職金支給規定が定められている法人にあつては、退職金要支給額のうちの当期発生額をもつて、労働協約以外のもので退職給与規定が定められている法人にあつては、右当期発生額と当期における使用人給与総額の六パーセントのいずれか低い額をもつて、当該事業年度の繰入限度額とし、しかも、期末退職金要支給額の五〇パーセントをもつてその累積限度額として(同法施行令一〇六条参照。)、損金に算入することを許すこととしたのである。それ故、本条は、控訴人主張のごとく、「退職給与引当金」が本来的に確定債務であることを承認したものではなく、むしろ、被控訴人主張のごとく、「退職給与引当金」が本来確定した債務ではないが、前叙のごとき理由から、敢えて一定の条件と限度のもとにその損金算入を認めたものであつて、同法二二条三項にいう「別段の定め」に該当するものというべきである。

なお、控訴人は、相続税財産評価通達が、法人税法五五条二項所定の退職給与引当金勘定を設けていない法人について「退職給与引当金」を負債と認めず、また、「退職給与引当金」や本件退職金相当額のようなものが本来的に確定した債務ではないとして、これらを資産から控除するのを認めないことの違法をいう。しかし、控訴人の右主張は、すべて、本件退職金相当額が相続税法にいう相続財産の価額から控除することのできる債務(同法一三条一項及び一四条一項参照。)に該当することを前提とするものであること、その主張自体に徴して明らかであるが、本件退職金相当額が相続税法にいう相続財産の価額から控除することのできる債務に該当しないことは、前段説示のとおりであるから、控訴人の右主張は、前提そのものにおいて失当であつて、所詮、排斥を免かれないものといわざるを得ない。

よつて、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡部吉隆 蕪山厳 安国種彦)

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